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Radio-GXKのプロファイル タイトル
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「Radio-GXKのプロファイル」の目次

1 一般的な…プロファイル
  □ 1-1 現在のこと
  □ 1-2 過去のこと1 (幼稚園から小学校卒業まで)
  □ 1-3 過去のこと2 (中学校から大学入試まで)
  □ 1-4 過去のこと3 (大学から大学院修了まで)
2 様々な病気に憑かれて
  □ 2-1 毎日が闘病生活(1) 心室中隔欠損
  □ 2-2 毎日が闘病生活(2) 偏頭痛
  □ 2-3 毎日が闘病生活(3) 神経性?胃炎
  □ 2-4 毎日が闘病生活(4) 高脂血症&脂肪肝
  □ 2-5 毎日が闘病生活(5) 咳喘息 (せきぜんそく)
3 酔狂な…プロファイル
  □ 3-1 幼稚園児が第9を聞くと
  □ 3-2 岩石採集への熱中時代
  □ 3-3 鈍行乗り潰しで日本1周を目指せ

一般的な…プロファイル

 ご挨拶の代わりのプロファイルです。現在のこと、過去のことなど。ちょっと分量が多いですが、語り切れないんだな、これが。誰も見てないか…。

□ 1-1 現在のこと

 文章で書くと長くなるので、表にしてみました。(結局長かったりして…)

年齢・性別
50代前半の男。東京オリンピックは記憶にない。昭和30年代後半はまだ「戦後」と言われた時代←ホントか?
住んでいる所
神奈川県中部の某所
家族
妻一人・息子一人
職業・経歴
簡単に書けば、「サラリーマン技術士」。主にプロ用途様々な機器の研究・開発。現在はEMCをはじめ、様々な電磁現象やノイズと戦う。自分の設計でない装置の技術トラブルであっても、顧客はじめ各方面に頭を下げまくるのも仕事。
専門(と言えるか?)
表向きアナログ回路。kHz,pAオーダーから100MHz,数Wのオーダーまでの回路設計経験あり。特にCCDやレーザ回路関係の設計が多かった。研究から設計、評価やEMC対策、メカや光学系の尻拭いなど、何でもアリ。だから、専門と言えるほど技術は深くない。早い話が半人前。
取得資格
技術士(電気電子)
第1級陸上無線技術士
iNARTE EMC Engineer
電気通信主任技術者 伝送交換(無線)
電気通信主任技術者 線路
甲種危険物取扱者
電気通信工事担任者(アナログ・デジタル総合種)
第2種電気工事士
第1級アマチュア無線技士

 なんだか履歴書みたいで、堅くて面白みがないですね…。

性格
凝り性 ハマると見境なし。仕事でも趣味でも。
性急 行列、渋滞、人待ち、電車待ちなど、いとわろし。
すぐ怒る 家族に迷惑かけてます。
楽天的 なるようになるさorなるようにしかならない
新しい物好き 新しいものなら何でも食いつくというより吟味して買うタチ。単に「新しい」というだけでは買う気が起こらない。
趣味
このページに書いた、もろもろのことと、音楽鑑賞(クラシック)。クラシックも昔はCDを買い込んで聞いていたけれど、最近は時間がなくてほとんど聞いてないです。
パソコン歴
約30年(ホントか?)よくアンケートとかで聞かれるんですけど、自分で所有していたのはPC-9801F2からで、約25年ですが、それ以前から高校の部活で無線のQSL整理などに使ってました。こう書くと、ベテランみたいですが、Windows(UNIXも)なんか、中身はさっぱり。MS-DOS育ちなもんで。
インターネット歴
約18年(これもホントか?)自宅で始めたのは1996年です。会社のPC(その頃はSUNのWorkstation)でMOSAIC(Netscapeの前身のブラウザ)を使ってました。自宅環境は、始めた当時はISDNで、ADSLを飛び越えて2004年から光ファイバに。もっぱら使う方。ネットワーク自体の仕組みには、ほとんど素人。
嗜好
タバコはダメです。持病の偏頭痛を引き起こすそうなので。酒は元々強くない上に、脂肪肝(医者談)気味なので、飲み会の時ぐらいしか飲んでません。
特技
一度通った道、路線は忘れないこと。それと、昔はピアノをちょっと弾けた(家に電子ピアノがあるが故障したまま)。
苦手なもの・こと
文章を書く・絵を描く・人前で話す ことなど。特に「手短な文章」「要領を得た話」…このページを見れば納得かもしれませんね。
最近の悩みは?
血中脂肪値が下がらない。30代に増えた体重がなかなか元に戻らない。最近は「会社高血圧」。
賞罰
原動機付き自転車 酒気帯び運転で罰金刑(1回)


□ 1-2 過去のこと1 (幼稚園から小学校卒業まで)

 幼稚園から2回も転校した小学校卒業まで。いじめられながらも悪ガキを通す。途中、心臓の手術で入院したが、悪ガキは治らず。

幼稚園時代

手術入院
 生まれたのは東京らしい。幼稚園より前の記憶はほとんどなし。
 幼稚園に入る頃に関西に住む。とても手がつけられない悪ガキだった記憶あり。幼稚園に親が呼ばれたり、近所の家から苦情が来たり。
 幼稚園の間に1回引っ越したが、引越し先は山が近く、蛍やセミを取ったりしていた。家にいてお勉強なんて鳥肌が立つ。
 父親の転勤と共に、年長の後半に幼稚園を「中退」し、心臓手術(後述)のため新宿のど真ん中に引っ越す。
 東京女子医大病院に入院、悪坊主は続く。ただ、先に手術した、同室のお兄さんが、成功せずに亡くなってしまっていたので、手術室に運ばれ、無影灯の下に入った時には、「自分ももう目が覚める時はないのかな」と、麻酔で薄れる記憶の中で「死」を覚悟。
 手術は成功したが、退院してからは、結局、元の悪ガキに戻る。
小学校時代
 母親も関西人、幼稚園時代に関西に居たので関西弁がNativeだった。新宿の小学校に入学すると、必然的に「関西弁丸出し=変な奴」の烙印が押され、ほどなくイジメの対象になる。
 負けん気からケンカになるが、何せ生まれつき心臓に病気を抱えていた身、背は小さくてガリガリ。勝てるはずもない。
 2年に上がると同時に、横浜に転校。ここでもケンカばかり。流行り始めた野球チームに入るがずっと補欠。
 4年の途中で再び父親の転勤で名古屋に転校。5・6年になると、学校の課内クラブ活動で、科学工作クラブに入って、プラモデル以外の模型を作ったり、市の科学館で開かれていた、電子工作教室や岩石採集、天体観測(合宿)にハマる。これが後の人生をほぼ決めようとは…
 課外クラブでは、運動オンチを克服すべく、野球部に入っていたが、レギュラーの座は果てしなく遠く、永年補欠。名古屋で小学校を卒業。


□ 1-3 過去のこと2 (中学校から大学入試まで)

 転校で戻ってきた横浜の中学で、無線の免許を取って、高校では勉強そっちのけで無線三昧。案の定、浪人して受けたスベリ止めもすべて落ち、2浪の危機!

中学校時代

高校入試
 名古屋の中学に進んだが、1年の11月、またもや父親の転勤で横浜に戻る。元いた家だったので、小学校時代の連中もほとんどいた。怖そうなお兄さんたちもいて、痩せた転校生はおとなしかった。
 中学では課内活動の「科学クラブ」なるものがあって、これに入ってはガラス細工やら化学実験をしていた。
 無線の免許を取ってから、課外活動として無線クラブを創設。2年後半になってからだったので、ほとんど活動はできずに卒業。入試では、家から一番近い県立高校にほとんどまぐれで合格。卒業の春休みに2アマを受けるが沈没。
高校時代
 一応進学校だったので、周囲は頭のいい人ばかりで、まぐれで合格してしまった自分を悔やむ。最初はまた野球部に入ったものの、何を思ったか、また「科学部」に入部。
 科学部の中でも無線をやっていた「無線班」に入り、いきなり班長に。夜通しのコンテストから普段のアンテナ整備・運用、顧問や職員会との折衝まで、何でもやった。上級生がほとんどいなかったので、すき放題やっていた。通常、2年の前半で明け渡す班長の座を、後半まで居座り続け、1年生に譲った後も院政を敷くなど、悪の限りを尽くす。
 3年生となり、後輩たちの人数も増え、同級生たちが受験に備えてリタイヤする中で、部活に出続け、受験勉強はほとんどせずにいたら、やはり浪人。
浪人時代

大学入試
 都内の予備校に通うのがいやで、YゼミO船校という超マイナー(Yゼミ自体は有名だったが…)な国立理系コースで、一応真面目に勉強する。模擬テストをサボって、コンテストに出かけたこともあるが…
 さて第一本番の共通一次試験(当時)。前日に緊張し過ぎて持病の偏頭痛を発症してしまい、一週間後の追試を受ける羽目に。第一志望は諦め、前年受けた大学に志望変更。滑り止めの私立入試は、なぜか安全圏内校まで全て落ち、もう後がない「丸裸」の状態で国立の二次試験に臨む。異様なプレッシャーの中で受けた試験は、何とか合格、工学部の物理系学科という一風変わった学科に入学。


□ 1-4 過去のこと3 (大学から大学院修了まで)

 大学では教師の出す催眠音波と遠距離通学から来る睡魔と戦う講義の日々。マジメに出た(出ただけ)甲斐あってか大学院進学。しかし、研究者への道は険しいのであった。

大学時代
 横浜の家から、都内まで、約2時間かけて通う。マジメに講義に出るが、必修科目に限って、分かりにくい先生があたるものだから、授業に出ること=睡魔との戦いだった。
 高学年になると、実験レポートやら演習などで、寝る暇もない。他の科目など、何もできない状態が続く。どうも、こうやって時間に追われている状態では、本質が頭に入らない、ということを悟る。
 3学年末の研究室選択では、学内のレーザー専門研究施設があり、入学前からの希望でここを選択。ここは研究がハードなことで有名で、あまり人気がなく、すんなり決まる。
 卒業年次の4年は、それまで一応マジメに勉強したからなのか、推薦で大学院入学が決まり(実は成績のいい奴がみんな就職希望だった)、工作と実験ばかりしていた。ほとんど右も左も分からないまま、1年が過ぎ、卒業研究を終えて無事卒業。
大学院
(修士)
時代
 大学院になると、本格的に研究者としての訓練が始まる。問題を自分で見つけ出すことから、論文を読んで情報を集め、解決の手法を編み出して装置を作り、結果を他者にプレゼンする能力をつけるまで、2年間で叩き込まれる。
 この点、私の指導教官(助手:当時)は大変厳しかった。実験技術や結果を出すための発想など、とても真似できない、とすくんでしまっていたと思う。これでは、問題も自分で見つけ出すことができないから、研究者としては失格である。始めのうちは学会発表の予稿すら、自分の言葉で書けないのだから。
 研究者になるには、もっと硬い意思と努力、何よりその分野への興味が次から次へと湧いて来るような状態でなければならない。そうでなければ、うまく行かない実験をアイディアで乗り切る原動力も、人に説明して理解してもらう説得力も、生まれて来ない。
 自分にはどうしてもそれが足りない、と思ったので、修士論文は書いたものの、大学で研究者になる道は諦め、就職。
 こうして就職しましたが、入社以来感じていることは、大学での研究者に限らず、科学・技術に関わる優秀な人を見ていると、ほぼ例外なく、どんな分野に対しても興味がどんどん湧いてくる人。逆にそういう状態になれる人しか、優れた業績は残せないような気がしてなりません。
 その意味で、研究者になれるかどうかではなく、日々の仕事の中でも、いまだにこういう能力が不足だと感じる、今日この頃なのです。



様々な病気との闘い
 上に書いたように、ターニングポイント(というほどでもないが)では、様々な病気が登場します。私より重い症状で今も苦しんでいる方もおられると思いますので、偉そうなことは書けませんが、同じ病気の「同志」の方々のために、今までかかった病気を書いてみましょう。

□ 2-1 毎日が闘病生活(1) 心室中隔欠損

 心臓の心室(下の方の部屋)間の隔壁に先天的に穴が開いているものです。静脈血と動脈血が混ざってしまいますので、体が大量の酸素を必要とする激しい運動などができません。生まれて間もなく分かる場合が多いので、子供のうちに手術することで、寿命も延び、通常に生活できるようになります。手術は人工心肺をつけて、心臓の一部を開き、心室の穴を塞ぎます。成功率は高いようです。
 この病気で嫌なのは、暴れたい子供時代にプールにも入れないことです。幼稚園時代、私はいつも見学でした。穴が比較的小さかったようで、走ったりする程度は大丈夫でした。
 今は接着剤の進歩で、手術後の「抜糸」という言葉も死語になりつつあり、傷も目立たないそうですが、当時の技術では、胸元からヘソの上までかかる、大きな傷跡が残りました。ヘソの右上、左上には人工心肺を繋いだと思われる穴の跡です。学校でも、プールでは人目が気になったものです。
 それから問題は輸血でした。当時は、C型肝炎が見つかっておらず、最近になって輸血感染の疑いが言われるようになりました。私も(医療系の仕事で、血液が飛び散るような臨床実験したこともあって)会社で血液検査を受けましたが、肝炎ウイルスはすべてNegativeでした。ただ、検査も100%ではないので、高脂血症の検査と同時に時々調べてもらっていますが、今のところすべてOKなので、大丈夫でしょう。


□ 2-2 毎日が闘病生活(2) 偏頭痛

 頭の中の血管が、何らかのトリガーで膨張し、頭痛を引き起こすものです。トリガーにはアルコール一般・タバコ・赤ワイン・チョコレート・強い光や急な温度変化まで、様々なものが言われています。これらに当たってもその時の体調によっては発作が起こる時と起こらない時があり、メカニズムは解明されていないそうです。
 思春期に「発症」することが多く、女性に多いとか、几帳面な性格の人に多いとか言われます。俺は男!ですが、中学1年で起こり始めたし、几帳面はアタリかも。医者に掛かると、必ず親や兄弟に同じ症状がないか聞かれるので、遺伝的要素もあるようです。
 痛みの程度は人により様々で、私のは相当ひどい方でした。ついこの間、新薬が開発されるまで、1日に何回も便所でゲロゲロやってました。以前に作家の五木寛之氏が、若い頃、同じような症状で『便器を抱えてへたり込んでいた』というようなことを、新聞のコラムに書かれていたのを見たときは、同じような人もいるんだ、と思ったものです。
 中学から大学の頃は2日間寝込むこともあり、ついには共通一次(当時)の時にまで起こってくれたのです。年に数回とはいえ、発作の前兆としてやってくる、あの「閃輝暗点」(目に映っている画像の一部に動くキラキラが見える症状)の恐怖が、日常生活をも「いつ起こるかわからない」という、緊張に追いやっていました。
 この苦しみから逃れるべく、
  • ウデのある、と言われた脳外科の先生のところに行ってはCT画像を見ながら、「脳が萎縮してる」と言われ…(それって偏頭痛の原因ですか?)
  • 有名な漢方医のところに行くと、「体に水が溜まってる」と言って苦い薬を飲まされ…(結局しばらく飲んでも再発した)
  • 背骨を真っ直ぐにして万病を治す、という触込みの整体師には「背骨が曲がってる」と言われ…(結局しばらく通っても再発した)
  • ある医者には脳波を取られ、「脳波が時々7Hz(正常人は約10Hz)ですね」やっぱり俺って、頭の回転悪いのか?
と、何でも試しましたが、すべて効きませんでした。

 あるとき、かかっていた先生に聞きました。
私「先生、どうして偏頭痛は起こるんでしょうか?」
先「ウーーン、それが分かればねぇ…」
 結局は、対処療法しかないのだということを悟りました。命に関わる病気なら、別なんでしょうけど…。

 その対処療法ですが、最近まで、効いたり効かなかったりする「カフェルゴット」という頓服薬を飲んでいましたが、「イミグラン」という即効性のある特効薬ができ、外さず痛みが抑えられるようになりました。
 でも新薬なので、1錠\2,000円前後(保険適用なしで)するんですよね、この薬! それで、吐くことはなくなり、寝込むのも半日で済むようになり、劇的に楽になりましたが、それでも寝ていないと次の日仕事ができません。頭痛で早退するたびに上司に謝ってます。

 この病気のお蔭で、ちょっとは打たれ強くなった気がします。あの忌まわしい前兆が来た後、のた打ち回るような頭痛と吐き気、治ってからもなおも長く続く痛みか、次の日もまた発作。授業について行けなくなろうが、同僚に謝って打ち合わせを延期しようが、私はもう一度立ち上がって「続きの人生」を生きていかねばならない。負けてなるかと力んでも、神様がサイコロを振るのだから仕方がない。
 人生観が変わってしまったかもしれませんね。


□ 2-3 毎日が闘病生活(3) 神経性?胃炎

 会社に入って一年間、大変忙しい日々が続きました。忙しいだけでなく、納得の行かないことばかりの日々で、2年目に入ったある日、ついに胃が痛くて、食事が食べられなくなりました。
 初めて内視鏡を経験しました。画像を見せてもらいましたが、胃潰瘍とまでは行きませんでしたが、ひどい胃炎だったそうです。その後、「ガスター10」で有名なH2ブロッカーを長期に服用しましたが、基本的にこの手の病気は、原因を取り除かないと治らないんですよね。
 私の場合はそれが仕事でしたから、一時期よくなったものの再び悪化して、もう一度内視鏡を飲んだ覚えがあります。この頃からですね、無理して仕事をしても理不尽は居座り続けるし、体は壊すしで、何もいいことがない、と悟ったのは。


□ 2-4 毎日が闘病生活(4) 高脂血症&脂肪肝

 代表的な成人病だと言われます。研究室にいた頃は、毎日のように夕飯に中華料理やとんかつを17時に食べて、また3時間ほど仕事をしたら2時間かけて家に帰り…という生活でした。毎日中華やとんかつだったのに、全く太りませんでした。ところが、仕事をするようになってからは、寮や家に帰って食事をするのが21時ごろで、寝るのが23時ごろなので、それ(食べてから寝るまでの時間が短い)がいけないんだ、と医者は言います。
 医者は勝手なもんで、「早く帰れ」と言うだけで、私の仕事を減らしてくれるわけもありません。要するに「早く帰るほど仕事が楽なら、こんな病気にはもともとならない」ワケですね。
 高脂血症が動脈硬化や血栓の原因であると言われていますが、報道されている分には、最近いろいろと薬物治療に移る判断に、議論があるようです。アルコールもタバコも飲まず、高血圧や糖尿の気もなく、危険因子がほとんどない状態での私のコレステロール値では、まず経過観察で、値がどんどん上がっていかない限り、薬物治療は必要ないんだそうです。
 でも、値が下がるに越したことはないので、食事に注意して揚げ物や卵黄を摂らないようにし、駅と会社間の約30分を毎日毎日歩き続けました。ところが、値はノイズの範囲で上がったり下がったりのまま。結果を見た看護士と、「なんででしょうねぇ…」と頭を抱える始末。
 そんなある日、会社で医療機器系の仕事をしていた時に、「放射線取扱者」の血液検査結果を見た産業医は、「お前はここ何年もずっと値が高いから、即、今日から薬だ!」と言い放ち、投薬したのでした。後で聞いた話ですが、この先生が処方する薬は、非常にきつい薬だったそうで、飲んで数日は手や足が日焼けの後のようにヒリヒリし始め、油分が取れてガサガサになりました。この症状は治まりましたが、効き目は絶大で、コレステロール値は2/3程度に下がりました。
 しかし、そもそも、会社のコレステロール値・中性脂肪値の基準は、タバコのみ&酒飲みの基準以上の厳しさなのです。また、血球数等を調べる目的の放射線取扱者の検査で、血中脂肪まで見るものでしょうか? 「別件逮捕」ではないでしょうか?
 どうも腑に落ちないので、何ヶ月かかかって少しずつ薬を減らし(注)、しばらく普通の生活をした後、近くの循環器専門病院で見てもらいました。結果が、上記のようなコメント(この値なら危険因子が少ないあなたは、様子見でかまわない)でした。
 以降、会社の検診ごとに「値が高いので再検査」、再検査後は「産業医の診察をお勧め」されていますが、「循環器専門病院で経過観察中」と断っています。

 (注)慢性病の薬を医者に黙って勝手に減らすことは非常に危険です。絶対に真似しないで下さい。命に関わるかもしれません。


□ 2-5 毎日が闘病生活(5) 咳喘息 (せきぜんそく)

 聞きなれない病名です。私も初めて聞きました。
 ちょうど北海道から帰ってきた2004年の8月初めに、軽い風邪を引いたのですが、特に熱が出ることもなく、すぐに治りかけていました。たまたま、職場の飲み会があったので断る理由もなく、出たのですが、それからどんどん咳が出始め、ついにはひどくなって夜中に息もできないほど咳き込むようになってしまいました。仕事では、打ち合わせすらできません。
 会社に入ってから、風邪でも出社することが多くなり、なかなか治らず、咳が1ヶ月以上続くことはありましたが、今回ほどひどいことはありませんでした。
 慌てて呼吸器内科を受診してみると、X線撮影したり、肺機能検査をしたりして、タイトルにある「咳喘息」ではないかと言われたわけです。これはいわゆる「喘息」ではなく、気管支の狭窄などはありませんが、気管が荒れた状態になっている、とのことです。
 私のように、風邪の後に咳が続くような治り方を繰返していると、咳喘息になりやすいとのお話でした。また、この病気は「本物」の喘息に移行することもあるため、油断はなりません。多少の咳でも、続くようなら、医師の受診をお勧めします。(なんだか、「たけしのブラックホスピタル」みたいになってきたぞ)
 呼吸器系の病気はなかなか治りません。これを書いている時点で、すでに3ヶ月弱経っていますが、さらに1ヶ月ほど投薬が続きそうです。



酔狂な…プロファイル
 ここでは、子供の頃から大学院時代にかけて、結構ハマっていたものの、今となってはやらなくなってしまった趣味(遊び?)のいくつかをご紹介します。

□ 3-1 幼稚園児が第9を聞くと

 幼稚園の頃、親父が真空管式のステレオを買ってきました。短波からFMまでのラジオとレコードプレーヤーが、スピーカーボックスと一体になった筐体に付いている、今で言うCDラジカセのようなものです。真空管式ですから、図体は大変デカイのですが。
 親父の音楽の趣味は全く知りません(聞いているのを見たことがない)が、LPレコードがジャズや映画音楽、クラシックにわたって、数枚ずつありました。幼稚園児だった私も、何故だか自分でレコードが掛けられるようになっていました。最初はオモチャにしていたのでしょうが、その中であるレコードにハマリ、何度も聞くようになりました。それが後に知る、ベートーベンの第9だったのです。
 今もって、何故これにハマったのか、説明できません。他にも「天国と地獄」とかもっとノリのいい曲があったのに、なぜマイナーコードで始まる長大なこの曲なのか…。それも、あの大指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮で。
 余談ですが、CDの最長再生時間の規格を決めるとき、「カール・ベーム(指揮)の第9が収録できること」が条件だった、という話を聞いたことがあります。要するにメジャーなクラシックの中で、最も演奏時間が長い第9を、最もゆったりしたテンポのベームが指揮しても収まること、という条件なのですが、確かに私の持っているベームの第9のCDは、は81分ほどもあります。

 私は「サビ」の第4楽章ばかり聞いていました。幼稚園児がこんな変な?モノにハマってしまったからには、と、親が思ったかどうかは分かりませんが、前後してピアノを習わされました。ところが、この先生(女)がいきなり初回から、本物のピアノを触ったこともなければ楽譜など見たこともない私に、五線譜を出してきて「この音を弾け」と命令するのです。3歳で作曲したという天才モーツアルトでも、最初は「聞く」「弾く」からでしょう。いきなり五線譜に書いて作曲したとは思えません。
 結局レッスンの時間中、そのヒステリックな女の先生は声を上げつづけ、私は泣いてしまって1回でやめました。今思い出しても、あれは何だったんだろうなぁ…。

 時は移り、小学校高学年になると、エレキの工作からオーディオ(と言ってもラジカセですが)をはじめました。オーディオ趣味の人はジャズかクラシックを聞く人がなぜか多いように思います。最近思うのが、両方ともオーディオ機器で、ダイナミックレンジ、定位、その他の数値スペックで語られる性能が臨場感や「空気感」といった、数値で表せないものに現れやすい音源だからではないでしょうか?
 私もそこまで小学生のうちから分かっていたわけではありませんが、幼稚園の頃に聞いた第9がどこかに残って居たのでしょう。レコードは高価で買えません(プレーヤーもない)から、ひたすらFMのクラシック番組をカセットテープにエアチェック(この言葉ももう死語ですね)していました。これが高校の頃まで続きます。
 大学になってからは、CDが一般的になり、大学の生協で注文(1割引き)したり、輸入盤を物色したりしていました。結局あれこれ買ったはいいが、時間がなくてほとんど聞かずにほったらかしになっています。子供が見つけて聞いてくれないかな、とも思いますが、ゲームにハマっているようでは、ちょっと望み薄でしょう。


□ 3-2 岩石採集への熱中時代

 小学校4年から6年、中学1年と名古屋に住んでいて、市の科学館が、学校の休み期間中に主催する電子工作教室や岩石(鉱物・化石)採集・天体観測にハマったことはにも書きました。なかでも、電子工作の次にハマったのが、岩石採集です。家が石だらけになりました。
 後になって分かったのですが、中部地方というのは、地質学的に非常に面白いところです。特に岐阜県と愛知県の東部です。岩石の分類に、そのできかたの違いにより、「堆積岩」「火成岩」「変成岩」の3種類がありますが、この地域には、このすべてが産出されるのです。
 岐阜県西部(確か大垣市の金生山だったと思います)のフズリナ石灰岩、岐阜県恵那地方の花崗岩、愛知県蓬莱寺町の変成岩各種などです。このうち、市の採集教室で行ったのは、金生山(確か)と恵那の花崗岩です。

 金生山は、全山が石灰岩で、しかも、それらがフズリナやウミユリといった化石からできていることで有名です。石灰岩は、セメント等の原料ですので、今は掘り尽くされて、山自体はほとんど残っていないそうです。Webで調べると、化石博物館として見学できるようです。採集教室では、ここに観光バスで行き、好きなだけ化石を取ってこられました。岩石ハンマーとルーペは必須です。今ならこれに加えて、デジカメですね。当時、クリノメーターは小学生の小遣いではちょっと高価で手が出ませんでした。
 石灰岩が熱変成を受けると大理石になりますが、ここでは、よく探すと大きな結晶の大理石も採集できました。米粒のようなフズリナが石全体にびっちり詰まった石灰岩や、断面がキラキラ光る大理石は宝物でした。
 こういう「採集ツアー」とは別に、家の近くでも化石が出るところがあり、自転車で走り回っては採集していました。名古屋市内でしたが、家から自転車で10分ほどの平和公園近くの山の中の露頭では、泥岩・砂岩の層に亜炭が、これまた自転車で15分ほどの名東区の小さな河原では貝化石を含む泥岩が、それぞれ採集できました。

 花崗岩は壁材や墓石に用いられる一般的なものですが、恵那地方は花崗岩の大産地で、大規模な石切り場がいくつもありました。採集教室では、これらのひとつにお邪魔して、採集させてもらうわけです。花崗岩ももちろん採集対象ですが、それ自体はどこにでもある石なので、あまり面白くありません。我々の最大の目的は、晶洞の中にびっしり生える水晶か、それがなければ水晶単体、それもダメなら巨晶(マグマが冷える時に、冷える速度が遅く、構成鉱物が巨大な結晶となっているもの)です。結局このときは、巨晶が少し採集できただけだったような記憶があります。
 石切り場の人たちは、均質な石でないと商品価値がないので、晶洞や巨晶といった不均質なものが出てくると、「クズ置き場」に捨ててしまうそうです、と知ったのはこの文を書くためにWebを調べまわっていた時のこと…。こんなことを書かれたら、また行きたくなってしまいます。

 変成岩は、あまり採集できませんでした。黒部峡谷に家族旅行に行った時、黒部川の河原で大きな方解石を拾ったことはありましたが。

 ここまで書いておいて、写真でも載せればよかったのですが、すべて記憶の中だけです。というのも、就職して独身寮に入ってしばらくして、これらの石を全部、親が「押入れが片付かない」と言って、庭に捨ててしまった(捨てた先が庭なので、探せば出てくるが)からです。
 採集データとともに保管していませんでしたから、標本価値はないのですが、「宝物」としての価値も捨てられたようで、悲しい限りです。せいぜいダンボール一箱分くらいだったはずなんですが…。


□ 3-3 鈍行乗り潰しで日本1周を目指せ

 ことのはじめは、関西にある祖父母の家に「青春18きっぷ」で行くようになった中学の頃です。
 当時、学校が休みになると、横浜から家族で車で出かけていました。ある時、「今年も行こう」と言ったところ、「毎回毎回、休みになりゃいくらかかると思ってんだ!」と怒られました。「こうなりゃ、何が何でも行ってやる。鈍行で一人で行ったらどうだ。貯めた小遣いででも行けるだろう。」反抗期はこう来なくっちゃいけません。おとなしく親の言うことだけ聞いてたら、いつかはキれてしまいます。
 というわけで、時刻表なるものを初めて買って調べてみると、片道数千円と10時間もあればで行けるではありませんか。これなら行ける、と即実行しました。費用だけを問題にした親は、他にも理由があったのかもしれませんが、言わないのだから知りません。反抗期です。
 2回目にこれをやろうとしたときだったか、時刻表のある広告にふと目が止まりました。「普通列車1日乗り放題」「5枚綴り\10,000」そう「青春18きっぷ」です。当時は1枚だけ2日間有効の券が入っていました。大垣行きの夜行普通列車も元気だった時代です。国鉄(当時)は貧乏学生の味方だ、とつくづくありがたく思いました。
 これなら今までの費用におつりがきて、行き帰りだけでなく、向こうに着いてからもいろんな所に行ける…、と思った時でした。ふと「国鉄全線、乗りつぶしてみようか…」。ついに「鉄」の「道」に踏み込んでしまいました。ただ、乗り潰しが目的ではあるものの、楽しみたいのはあくまでも「旅」であり、硬券を集めるとか、客車や気動車の「型」だとか、そちら方面の興味はあまりないのでした。

 当時、チャレンジ2万kmという乗り潰しキャンペーンを、国鉄がやっていましたが、これには参加はしませんでした。最初は祖父母の家や自宅を基地にして、西日本・関東を中心に廻っていましたが、高校、大学となるにつれて、あるときはいとこを引っ張り出して、あるときは無線班の後輩を脅して引きずり出し、四国・中国や本州の日本海側を、ただひたすら乗りまくっていました。上で、目的はあくまで「旅」だ、などと書きましたが、ほとんど列車に乗りっぱなしの行程の、どこが「旅」なんだ、と言われそうです。
 でも、地方を廻っていると、風景はのどかだし、向かいに座ったおばぁちゃんが「どこから来たのかね、横浜? そりゃぁまぁ遠いとこから来なさって…」などと言って、ミカンや飴を下さったり、それはもう、都会では味わえないのんびり旅です。

 そんなこんなで残っている記録を合計すると、1万kmちょっとで終わっています。磐越西線と水郡線以南の本州ほぼすべてと、四国ほぼ全線は走破しました。費用がかさむ北海道と九州はほぼ全線残ったままです。今では廃線になった大社線、可部線の可部から先だとか、座席のない和田岬線、第三セクター転換の二股線、足尾線、中村線…よくあれだけ乗ったもんだ。
 残っているのは、就職して時間がなくなってしまったからなんですが、爺さんになって金と時間と体力が残っていたら、また乗り回したいものです。それまで、ローカル線をガンガン廃線にしないでほしいな>JR各社殿 だって「青春18」で行きたいですから。