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鉄道写真 東日本 タイトル
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 東日本のエリアは、東北(磐越西線・磐越東線より南)を除いて家から泊りがけでなく行けるので、ほとんど乗りました。思い出深いのは、写真にはありませんが、廃線になってしまった横川−軽井沢間の信越本線です。新幹線開通とともに廃線が決まってから、実際に廃線になるまで、直江津への出張で数度、上越新幹線で長岡を経由せず、わざわざ横川経由で釜飯を食いながら出かけた記憶があります。
(残っていたネガは、すべて国鉄時代のものですが、分かりやすく今のJRの区分で分けてみました。ネガは保存状態が悪く、カビやら汚れやら色ズレやら…年代相応のものと、ご勘弁下さい。)
 路線名、駅名、営業キロ数等は、全て乗った当時のものです。路線のデータは、日本交通公社(現JTB)発行の「国鉄全線乗りつぶしの本」(ISBN 4-533-00467-9 1985年)を参照しました。

昔の鉄道写真 東日本編の目次

 1 東海道本線 東京-熱海
 2 相模線 茅ヶ崎-橋本
 3 八高線 八王子-倉賀野
 4 水郡線 水戸-安積永盛,上菅谷-常陸太田
 5 上越線 高崎-宮内
 6 吾妻線 渋川-大前
 7 足尾線 桐生-間藤
 8 真岡線 下館-茂木
 9 日光線 宇都宮-日光
10 烏山線 宝積寺-烏山
11 飯山線 豊野-越後川口
12 総武本線 東京-銚子,錦糸町-御茶ノ水
13 鹿島線 香取-北鹿島

東海道本線

 東海道本線は東京から神戸まで589.5kmの大動脈ですが、途中、掛川から新所原までとか、大垣から米原までなど、本数が少なくて、ローカル線のような雰囲気の所もあります。
EF65牽引の踊り子号 茅ヶ崎駅 1987年1月2日
Fig. 1-1

EF65牽引の踊り子号 茅ヶ崎駅
1987年1月2日
 実家にいた頃は、大学通学で乗っていたので、特別な感慨はありませんが、こうやって当時の写真を見ると、懐かしいですね。
 左写真は、ヘッドマーク付きの踊り子号(下り)で、客車を牽引する臨時列車ではなかったかと思います。このEF65-1118号機は、今でも塗装が塗り替えられて、元気に貨物や客車を引いているようです。
 左側は、165系の急行東海(上り)。
 最近、新聞では「旅鉄」の間で有名な大垣夜行が急行になって、さらに(2009年のダイヤ改正で)廃止される、と報道されています。そんなことすると、「テツ」が減って、売上の何%か失いますよ、JR各社殿。

相模線

 相模線は神奈川県内を茅ヶ崎から橋本まで走る、33.3kmの路線です。県内最後の非電化路線として、1991年まで気動車が走っていました。今では、205系ステンレス車ですが、「ドアが外側に付いている」キハ30…いい味出してました。でも、終日、ボタンを押さないとドアが開かないのは今も変わりません。
キハ30と変な男(管理人) 茅ヶ崎駅 1987年1月2日
Fig. 2-1

キハ30と変な男(管理人) 茅ヶ崎駅
1987年1月2日
茅ヶ崎駅駅名標 相模線ホーム 1987年1月2日
Fig. 2-2

茅ヶ崎駅駅名標 相模線ホーム
1987年1月2日

八高線

 八高線は八王子と倉賀野を結ぶ92kmの長いローカル線です。この線も首都圏を走る非電化路線でしたが、輸送量の多い八王子から高麗川(この区間は、ローカル線とは呼べないかもしれません)までは1996年に電化されました。やはり高麗川から北側の、田園地帯をのんびり走るところが好きですね。

明覚駅駅名標と変な男 1987年1月3日
Fig. 3-1

明覚駅駅名標と変な男
1987年1月3日
交換待ちの高崎行キハ35 1987年1月3日
Fig. 3-2

交換待ちの高崎行キハ35 明覚駅
1987年1月3日

水郡線

 水郡線は常磐線の水戸と東北本線の安積永盛(郡山)、及び支線として上菅谷と常陸太田を結ぶ137.5km+9.5kmの路線で、袋田の滝などの名所がある山間を抜けて走ります。
水郡線上り330D 郡山駅 1986年3月8日
Fig. 4-1

水郡線上り330D 郡山駅
1986年3月8日

水郡線上り列車 上菅谷駅 1986年3月8日
Fig. 4-2

水郡線上り列車 上菅谷駅
1986年3月8日

上菅谷駅駅名標 1986年3月8日
Fig. 4-3

上菅谷駅駅名標
1986年3月8日
常陸太田駅駅名標 1986年3月8日
Fig. 4-4

常陸太田駅駅名標
1986年3月8日

 写真にはあまり風景がありませんが、郡山方から乗ると、暫く山間の磐城棚倉や袋田などの農村・山間を走った後、関東平野に出ます。ローカル線らしく、のんびりしていました。支線の上菅谷と常陸太田の間は、アップダウンのほとんどない、田園風景が広がっていました。

上越線

 上越線は、高崎と信越本線の宮内を結ぶ162.6kmの路線です。高崎を出ると、まずはこの路線の見所(というか、最大の「難所」)の清水トンネルです。長いです。ひたすら直線(上り方向は土合・土樽にループがあります)です。青春18切符の売り出される冬や春であれば、「トンネルを抜けると雪国」が実感できるでしょう。ところでこの路線、新幹線が開通してから本数が激減しましたが、まだ青春18で乗れる普通列車って走ってるのかな?

上越線下り 越後川口駅 1987年3月9日
Fig. 5-1

上越線下り 越後川口駅
1987年3月9日
上越線下り 長岡駅 1987年3月9日
Fig. 5-2

上越線下り 長岡駅
1987年3月9日
 これらの3枚の写真はいずれも3月ですが、見ての通り、まだ雪が残っています。1980年代ですから、まだまだ「豪雪」がニュースになった頃ならでは、なのかも知れませんが…。
 2度ほど乗りましたが、走ったのが夜だったり、夜行列車の徹夜明けで寝てたりして、ほとんど記憶がないです。
越後堀之内駅駅名標 1987年3月9日
Fig. 5-3

越後堀之内駅駅名標
1987年3月9日

吾妻線

 吾妻線は、高崎線の渋川から大前までの55.6kmの比較的長い盲腸線です。高崎線の渋川で寝ていて、上り方向に一駅(八木原まで)乗り過ごし、戻っても間に合ったという、記憶があります。終点に着く頃には日が暮れてしまい、駅や車両の写真がありませんが、時刻表を見ての通り、日に5本しか列車がありません。今はどうなっているんでしょう?

小野上駅駅名標 1987年3月9日
Fig. 6-1

小野上駅駅名標
1987年3月9日

大前駅の上り時刻表 1987年3月9日
Fig. 6-2

大前駅の上り時刻表
1987年3月9日

 終点の大前駅は、駅舎と公衆電話しかない、本当に何もない無人駅でした。ひとつ手前の、万座・鹿沢口は草津温泉への玄関口で、けっこうにぎやかな駅なんですが。

足尾線

 足尾線は、両毛線の桐生から間藤までの44.1kmの盲腸線です。現在では1989年開業の「わたらせ渓谷鐵道」として第三セクターが運営しています。その前は、まだまだ足尾銅山の引込み線、という感じの路線でした。終点の間藤駅などは、同じ駅かと見まごう程に整備されています。

間藤行きキハ40 桐生駅 1987年1月3日
Fig. 7-1

間藤行きキハ40 桐生駅
1987年1月3日

大間々駅での交換待ち 1987年1月3日
Fig. 7-2

大間々駅での交換待ち
1987年1月3日

足尾駅の操車場 1987年1月3日
Fig. 7-3

足尾駅の操車場
1987年1月3日

山の向こうは中禅寺湖 間藤駅 1987年1月3日
Fig. 7-4

山の向こうは中禅寺湖 終着間藤駅
1987年1月3日

間藤駅駅舎(同行の従兄弟です) 1987年1月3日
Fig. 7-5

間藤駅駅舎(同行の従兄弟です)
1987年1月3日

 わたらせ渓谷鐵道のHPなどを見ていると、銅山の廃止後は完全に観光路線としてリニューアルされたようです。
 昔の「旅鉄」としては、生活や産業の匂いのする、こういう路線がなくなっていくのが、少しさびしい気がします。

真岡線

 真岡線は水戸線の下館と茂木を結ぶ42kmの路線です。一旦はJR東日本になったものの、その後、1988年に第三セクター「真岡鐵道」となりました。今では駅舎もきれいになり、時々SLが走っている観光路線になりました。終点の茂木の先には、「ツインリンクもてぎ」ができました。アップダウンはあまりない路線で、私が乗った頃は、のどかなローカル線でした。

七井駅駅名標 1987年3月5日
Fig. 8-1

七井駅駅名標
1987年3月5日

茂木駅駅名標 1987年3月5日
Fig. 8-2

茂木駅駅名標
1987年3月5日

夕暮れの茂木駅ホームから 1987年3月5日
Fig. 8-3

夕暮れの茂木駅ホームから
1987年3月5日

真岡線上りキハ20 茂木駅 1987年3月5日
Fig. 8-4

真岡線上りキハ20 茂木駅
1987年3月5日


日光線

 日光線は、東北本線の宇都宮と日光を結ぶ40.5kmの路線です。日光に行くのに修学旅行で乗った方も多いのでは? 観光地をバックに控えているので、第三セクター転換や廃線の話はないようです。沿線は、日光街道の杉並木(Fig.9-1の駅名標の向こう側がその杉並木)に沿って走る、アップダウンのあまりないローカル線です。

文挟駅駅名標 後ろは杉並木 1987年3月5日
Fig. 9-1

文挟駅駅名標 後ろは杉並木
1987年3月5日

下り 文挟駅での交換待ち 1987年3月5日
Fig. 9-2

下り 文挟駅での交換待ち
1987年3月5日

日光線の終点日光駅 1987年3月5日
Fig. 9-3

日光線の終点日光駅
1987年3月5日

向こうには日光の山々が 1987年3月5日
Fig. 9-4

向こうには日光の山々が
1987年3月5日


烏山線

 烏山線は、東北本線の宝積寺から烏山までの20.4kmの短いローカル線です。アップダウンは余りありません。田んぼや畑の中をのんびり走ります。始点の「宝積寺」から途中駅の「大金」駅までの乗車券が、縁起担ぎで売れるとか。

縁起のいい烏山線の始点 宝積寺 1987年3月5日
Fig.10-1

縁起のいい烏山線の始点 宝積寺
1987年3月5日

烏山線下りキハ40 宝積寺駅 1987年3月5日
Fig.10-2

烏山線下りキハ40 宝積寺駅
1987年3月5日

烏山線の終点 烏山駅駅名標 1987年3月5日
Fig.10-3

烏山線の終点 烏山駅駅名標
1987年3月5日

烏山駅全景 1987年3月5日
Fig.10-4

烏山駅全景
1987年3月5日

 「旅鉄」を始めた当時、国鉄民営化の流れの中で、廃止や第三セクター転換の話が出た路線の沿線には、「乗って残そう○○線」という立て看板やら、横断幕がありました。この、烏山駅の写真にもありますが、働き盛りは都会に出て、残った子供も少子化で通学客が減り…ということで、どんどん廃線、転換になってしまいました。
 近年、石油の値上がりとエコで公共交通機関が見直されていますが、剥がした線路はもう敷けない…。ノスタルジーではなく、本当にこういうローカル線を国を維持するインフラの観点から、残せなかったことが、将来どんな形で我々に降りかかってくるのか、心配です。
大金駅での交換 1987年3月5日
Fig.10-5

大金駅での交換
1987年3月5日


飯山線

 飯山線は、信越本線の豊野(長野)から上越線の越後川口(新潟)までの96.7kmの長い路線です。豪雪地帯を走る路線です。行ったのは3月でしたが、まだ2m近い雪が残っていました。

飯山線下り 戸狩野沢温泉行き 長野駅 1987年3月9日
Fig.11-1

飯山線下り 戸狩野沢温泉行き 長野駅
1987年3月9日

長野駅駅名標 1987年3月9日
Fig.11-2

長野駅駅名標
1987年3月9日

戸狩野沢温泉駅駅名標 1987年3月9日
Fig.11-3

戸狩野沢温泉駅駅名標
1987年3月9日

雪の中の越後川足駅 1987年3月9日
Fig.11-4

雪の中の越後川足駅
1987年3月9日

新潟県側の終着 越後川口駅駅名標 1987年3月9日
Fig.11-5

新潟県側の終着 越後川口駅駅名標
1987年3月9日

 豪雪の話の続きですが、調べてみると、この路線では森宮野原駅で7m85cmの積雪が記録されており、駅のホームにはその高さを示すポールが立っていました。どうやって列車の運行を確保したんですかね…あ、運休か?
 これは日本だけでなく、世界記録じゃないでしょうか? 寒いだけならバイカル湖とかいろいろありますが、大陸の内部では湿度が低いですから、雪はさほど降らない。こんなドカ雪が降るのは、世界でもこのあたりくらいなものなのでしょう。
 沿線には大きな地震もありました。地元の復興をお祈りします。

総武本線

 総武本線は東京から銚子までの120.5kmと支線として錦糸町−秋葉原-御茶ノ水間の4.3kmの路線です。千葉駅を過ぎて成田あたりまでは田園と住宅地の中を走ります。成田を過ぎてしばらくすると、ローカル線ぽくなってきます。

榎戸駅駅名標 1987年3月4日
Fig.12-1

榎戸駅駅名標
1987年3月4日

銚子駅駅名標 クースベイ? 1987年3月4日
Fig.12-2

銚子駅駅名標 クースベイ?
1987年3月4日

 JRでなくて恐縮ですが、銚子電鉄もいい味出してます。乗った途端に昭和時代に戻れます。何たって、車内広告が手書きです。この車両じゃないですが、パンタグラフの方向転換、手動です。経営危機だとのことですが、こんな文化財みたいな路線を廃線にしてはいけません。私が行った時には、お客さんが車掌さんに何か言ったと思ったら、次の駅で駅の中にある「鯛焼き」屋さんから車掌さんが鯛焼きを買ってきてくれました。こんな路線、他にない!
 「クースベイ」という謎の駅名標。調べたら、アメリカのクースベイという市と姉妹都市とのこと。でもなんで駅名標なんだろ? 余計に謎…。
昭和レトロを体験 銚子電鉄 銚子駅 1987年3月4日
Fig.12-3

昭和レトロを体験 銚子電鉄 銚子駅
1987年3月4日


鹿島線

 総武本線の香取駅から分かれて、北鹿島までの17.4kmの短い盲腸線です。私は、列車の終点である鹿島神宮駅までしか乗りませんでしたが、実は国鉄の線路はその先も北鹿島駅(現鹿島サッカースタジアム)まであって、その向こうが鹿島臨海鉄道の所有する線路になるんだとか。でも、鹿島神宮−北鹿島間は国鉄の切符で乗れなかった(今も乗れない。多分)。何でだろ。

鹿島線の始点 香取駅 1987年3月4日
Fig.13-1

鹿島線の始点 香取駅
1987年3月4日

途中駅の延方駅駅名標 1987年3月4日
Fig.13-2

途中駅の延方駅駅名標
1987年3月4日

鹿島線の列車の終点 鹿島神宮駅 1987年3月4日
Fig.13-3

鹿島線の列車の終点 鹿島神宮駅
1987年3月4日

鹿島鉄道の車両 鹿島神宮駅 1987年3月4日
Fig.13-4

鹿島鉄道の車両 鹿島神宮駅
1987年3月4日